9月7日(日本時間8日午前5時)、アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれるIOC総会において、2020年のオリンピック・パラリンピックの開催地が決定する。“東京”が選ばれるかに世間の注目が集まっているが、ふと「前回(1964年)に東京オリンピックが開催された際、アマチュア無線の記念局は設けられたのだろうか?」という点が気になってきた。
結論から書こう。1964年の東京オリンピックの際、JARL(社団法人日本アマチュア無線連盟=当時)は「特別記念局」を設けることはせず、希望者に記念の規格カード(自分のコールサインを書き込んで発行するもの=写真)を斡旋するにとどまった。
1976年に刊行された、日本アマチュア無線連盟50年史『アマチュア無線のあゆみ』には次のように記されている。
「東京オリンピックで日本中がわいたのもこの年だったが、オリンピックにおけるアマチュア無線の活躍は、諸外国では選手の母国との連絡などかなり広範囲に行なわれていたが、わが国ではなにぶんにも法規の関係で第三者の通信を行なうことは無理だった。 JARLでもオリンピック対策委員会を作ってその対策を練ったが、積極的な動きにはならず、参加者、観客として来日するアマチュアがJARLを訪問する際の応対の準備を整えるにとどめた。」
現代であれば、コールサインに特別な文字列を使った特別記念局が1年以上前から運用を行い、東京でのオリンピック開催を世界中にPRするだろう。しかし49年前には、まだそうした慣例も法規もなく、対応するために十分なスタッフもいなかったようだ。それもそのはず、1963(昭和38)年当時、日本のアマチュア局数は25,440局、JARL会員数は8,285名に過ぎなかったのだ。
ちなみに1972(昭和47)年の札幌冬季オリンピックでは「JA8IOC」が、また1998(平成10)年の長野冬季オリンピックでは「8J0OGN」「8N0WOG」が、それぞれ運用された。
●関連リンク:
ヘルツ君のQSLカードの歴史(JA1HZ)=左下にJARLが斡旋した東京五輪の規格カードあり
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